「資治通鑑」は「宋書」を参考に編纂されている。「宋書」にはいわゆる「倭の五王」の朝貢記事が載っているが、これは「本紀」部分や皇帝の日記である「起居注」にあるらしい。しかし「資治通鑑」ではそこまでは載っていない。一方「宋書倭国伝」には倭の五王の朝貢記事がある。
この時代に宋国内がどんな状況にあったかは、「資治通鑑」の編年体記述が参考になる。倭の五王が宋から貰おうとした将軍号なども、頻繁に出てくるから、どんな意味があるのかも想像が付く。
また「日本書紀」の記述にはストレートに倭の五王は出てこないが、呉との通行は雄略天皇時代には出てくる。この3つをまずは簡単に見比べてみたい。なお「日本書紀」では457年を雄略天皇元年に当てているが、実際には462年に安康天皇が暗殺されているから元年は463年であり、この年に吉備の反乱伝承が記載されている。また日本書紀にもこの時代に対応する様々な記事が散見される。そこでいくつか代表的な年号について関係を述べてみたい。
■は「宋書倭国伝」、●は「資治通鑑」、★は「日本書紀」、▲「三国史記」、古墳など他資料
■421年・「倭国は高驪の東南、大海の中にあり、世々貢職を修む。高祖の永初二年、詔していわく、『倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄すべく、除授を賜うべし』と。」
●421年(119巻)・前晋王を誅殺したなど、劉裕の権威は大きい。
▲この時期造山古墳が築かれ、吉備の古墳が最大になった時期である。
■425年・「太祖の元嘉二年、讃また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。」
●425年(120巻)・前年2代目皇帝が廃され、太祖が立って政権安定
■438年・「讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。珍また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。」
●438年(123巻)・この年燕王の馮弘は高句麗に逃亡し、宋に逃亡を謀るも、高句麗長寿王に誅殺された。この頃高祖の善政・文芸復興は「元嘉の治」と呼ばれる。
■443年・「二十年、倭国王済、使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。」
●443年(124巻)・この年北魏は柔然や仇地との抗争に忙しく、宋は全く平穏。
■451年7月・「二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。」
●451年(126巻)・前年北魏への侵攻するも、反抗され、年末にかけて建康対岸まで北魏に攻め込まれて、正月の朝礼も行えないほどの大混乱に陥る。そこに来た倭国朝貢使を厚遇した。
▲この使者団には当然吉備の代表もいたはずだ。作山古墳の時期である。
★457年・日本書紀雄略元年
●457年(128年)・世祖孝武帝元年この年百済は宋に朝貢し、鎮東大将軍に任ぜられる。同年百済は扶余として北魏に朝貢したが、これは北燕の流れの馮皇后に対する祝賀か。この百済の動きと百済にごく親しい雄略の動向は注目するべき。当時の倭国は允恭の存在感が薄い。
★460年・1月允恭は卒し、2月の葬儀に新羅使者が来て「うねめはや」事件起こる。皇位継承問題があり、12月穴穂皇子が即位、安康。即日宋に使者を派遣したようだが、宋書では無視されている。
●460年(129巻)・この年、宋は比較的平穏。前年459年に高句麗長寿王に開府儀同三司を認める
■462年・「済死す。世子興、使を遣わして貢献す。世祖の大明六年、詔して曰く、『倭王世子興、奕世戴ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし』と。」
★462年・前後して安康暗殺、後継争い激化の後、雄略天皇即位。
■462年・「興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。」(この部分は次の武の上表文の前段)
★463年・雄略7年吉備下道前津屋誅殺、下道田狭の稚媛を奪い、田狭は百済に派遣されるが新羅に入って反す。
★464年・「雄略8年春2月身狭村主青・桧隈民使博徳を呉国に遣わした。」この年まで即位以来8年新羅が朝貢しないので、新羅を攻めた。任那王が膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子らを新羅に送り、高句麗を討った。ここで呉国への使いも半島情勢の緊迫ですぐには渡航できたかどうかわからない。
★465年・雄略9年3月新羅征伐に紀小弓宿禰󠄀・蘇我韓子宿禰󠄀・大伴談連・小鹿火宿禰󠄀らを送り、小弓には吉備上道大海媛を同行させる。新羅で小弓は敗死、これを受け紀大磐宿禰󠄀が新羅に行き、蘇我韓子宿禰󠄀を誅殺。大海媛は帰国し淡輪に古墳を築く。
●465年(130巻)・宋の廃帝幼暴、8月戴法興・奚顯度・劉義恭・柳元景・顏帥伯の誅殺、山陰公主奔放。9月徐州刺史義陽王の昶の魏亡命。10月寧朔將軍の何邁反乱鎮圧。11月沈慶之閉門と誅殺。王族虐待と晉安王子勳挙兵。竹林堂廃帝誅殺。12月湘東王即位、子勳再挙兵。とこの年の後半は内乱状態にに突入していく非常に不安定な状況に陥る。
★466年・「雄略10年秋9月4日身狭村主青等が、呉が献じた鵞鳥二�屬鮖�って筑紫に行った。この時鵞鳥は水間君の犬に食われて死んだ。水間君は憂い恐れて鴻(ひしくい、大鳥)十羽と養鳥人を献じて罪をあがなうことを願い、天皇は許した。」
●466年(131巻)・1月��琬は尋陽で湘東王子勳を即位させる。薛安都味方し朝廷はわずかに2郡を支配に追い込まれる。蔡興宗が緩和策を取り、殷孝祖の入朝で情勢は逆転。2月蕭道成ら進攻で東軍崩壊し殷孝祖が敗死。3月沈攸之は赭圻の補給戦で占領。7月張興世の建議で濃湖の水上戦。8月劉胡・袁�擇瞭�亡、��琬の死と張��の降伏。沈攸之は子勳を斬る。劉胡は逃亡し死して一連の騒乱は終了。10月世祖の子皆殺し。薛安都らが魏に降り、河東公。12月劉勉の壽陽包囲と殷琰の投降。
このように丸々1年はほぼ内乱状態にあり、とても外国の使節が首都に到達できる状況になく、雄略の使者は、どちらに付くかと判断さえ出来ない状況だったろう。すごすごと引き上げてきたというのが真相だろう。
★470年・「雄略14年春1月13日身狭村主青等は呉国の使いと共に呉の献じた手末の才人、漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて住江の津に泊まった。この月に呉国の来朝者のために道を造り、磯果の道に通じさせた。これを名付けて呉坂とした。」
JR吉備線の服部駅なども服部部の住んだところ、吉備にも来ただろう。この時期には吉備では両宮山古墳などの時期。服部の南には寺山古墳がある
●470年(131巻)・宋は6月宮中裸婦人大宴会。蕭道成は難を免れる。9月蕭道成淮陰に鎮す。比較的平和だが幼主の横暴が続き、次の斉を建てる蕭道成が実力を付けていく。
▲471年・稲荷山の鉄剣銘の辛亥の年「(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」雄略の力が東日本にも及び、杖刀人などの人制が始まり、王権が強化される。
●471年(132巻)2月皇帝の行動異常、禁止語の多し南徐州刺史の晉平刺王の休祐の馬から落とし誅殺。巴陵王の休若は危機回避。5月上の病厚く休仁誅殺。7月巴陵哀王の休若誅殺。休范のみ全くす。上は蕭道成を疑い苦慮、入朝。10月垣崇祖淮北を經略失敗。皇帝の誅殺が続く。
▲472年・百済は北魏に朝貢、上表文。北魏答礼使・邵安を派遣。邵安二度目の使者は高句麗妨害し、北魏は詰問。この頃高句麗は僧道琳を密偵として送り込む。これを受け高句麗は毎年の北魏への遣使を2度行うようになる。百済と高句麗の対立激化は倭国を引きずり込んでいく。
▲475年(三国史記)・魏の顕祖は邵安を東來から海上で百済に送使するも、大風で到達せず。百済は度々高句麗が辺境を犯すので、北魏への朝貢中止。秋9月高句麗長寿王は兵3万人を率いて百済漢城攻撃し陥落、蓋鹵王は戦死、男女8万人捕虜、文周王は新羅援軍1万、高句麗撤退後、南下して即位。冬10月熊津に都を移す。
★476年冬(ここは1年ずれている)・高句麗王が大軍で攻め百済が滅亡。生き残りが倉下に集る。
★477年春3月・雄略は久麻那利を百済の汶州王に賜り、激励。
●477年(134巻)・宋の4月蒼梧王・後廃帝の放浪癖と虐殺趣味の恐怖。6月蕭道成は誅殺をまぬかる。7月廃帝・蒼梧王の殺害。蕭道成を司空、錄尚書事、驃騎大將軍、8月開府儀同三司。12月沈攸之の挙兵。
■478年・(倭王武の上表文)「順帝の昇明二年、使を遣わして上表して曰く、『封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き、畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆ず。臣、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸 な仮授して以て忠節を勧む』と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王に除す。」
●478年(134巻)・1月沈攸之は郢城を攻め落とせず江陵に逃亡、縊死。戒厳令解除。3月黃回に帰還。4月黄回の誅殺。8月二尚方の廃止。9月蕭道成に九爵。既に蕭道成の覇権が明確になる。
★479年夏4月・百済の汶州王が亡くなり、雄略は昆支王に2番目の末多王に筑紫の兵500を与えて「親しくねんごろに戒めて」送り届けた、これが東城王となる。
★479年8月7日・雄略天皇死す。星川皇子の乱。新羅を討つ吉備尾代に蝦夷反乱、丹波まで追いかけて誅殺。
●479年(135巻)・3月蕭道成に九錫。楊運長と臨川王の綽の誅殺。王儉抜擢。4月宋の順帝禅譲。齊の蕭道成即位。嶷尚書令、驃騎大將軍、開府儀同三司、揚州刺史。
こうして雄略の亡くなったのは、宋が蕭道成に乗っ取られて滅亡する瞬間に当たり、以後南朝への朝貢が途絶える事になる。逆に宋の失墜が雄略の命取りになった可能性さえある。雄略による日本列島統一は頓挫する。
令和2年4月13日 岡將男
2022年9月3日古代日本の中心は畿内・九州でない、首都邪馬台国の中心は吉備国・岡山
第3回定説への叛乱in岡山 9/3の11-16時、9/4の10-16時、2500円
蔭涼寺(岡山市北区中央町10-28)路面電車清輝橋線大雲寺町下車徒歩5分
岡將男資料pdf「楯築遺跡の再評価と牛窓の応神天皇」PP2022-0903定説吉備反乱3.pdf新着
この時代に宋国内がどんな状況にあったかは、「資治通鑑」の編年体記述が参考になる。倭の五王が宋から貰おうとした将軍号なども、頻繁に出てくるから、どんな意味があるのかも想像が付く。
また「日本書紀」の記述にはストレートに倭の五王は出てこないが、呉との通行は雄略天皇時代には出てくる。この3つをまずは簡単に見比べてみたい。なお「日本書紀」では457年を雄略天皇元年に当てているが、実際には462年に安康天皇が暗殺されているから元年は463年であり、この年に吉備の反乱伝承が記載されている。また日本書紀にもこの時代に対応する様々な記事が散見される。そこでいくつか代表的な年号について関係を述べてみたい。
■は「宋書倭国伝」、●は「資治通鑑」、★は「日本書紀」、▲「三国史記」、古墳など他資料
■421年・「倭国は高驪の東南、大海の中にあり、世々貢職を修む。高祖の永初二年、詔していわく、『倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄すべく、除授を賜うべし』と。」
●421年(119巻)・前晋王を誅殺したなど、劉裕の権威は大きい。
▲この時期造山古墳が築かれ、吉備の古墳が最大になった時期である。
■425年・「太祖の元嘉二年、讃また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。」
●425年(120巻)・前年2代目皇帝が廃され、太祖が立って政権安定
■438年・「讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。珍また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。」
●438年(123巻)・この年燕王の馮弘は高句麗に逃亡し、宋に逃亡を謀るも、高句麗長寿王に誅殺された。この頃高祖の善政・文芸復興は「元嘉の治」と呼ばれる。
■443年・「二十年、倭国王済、使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。」
●443年(124巻)・この年北魏は柔然や仇地との抗争に忙しく、宋は全く平穏。
■451年7月・「二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。」
●451年(126巻)・前年北魏への侵攻するも、反抗され、年末にかけて建康対岸まで北魏に攻め込まれて、正月の朝礼も行えないほどの大混乱に陥る。そこに来た倭国朝貢使を厚遇した。
▲この使者団には当然吉備の代表もいたはずだ。作山古墳の時期である。
★457年・日本書紀雄略元年
●457年(128年)・世祖孝武帝元年この年百済は宋に朝貢し、鎮東大将軍に任ぜられる。同年百済は扶余として北魏に朝貢したが、これは北燕の流れの馮皇后に対する祝賀か。この百済の動きと百済にごく親しい雄略の動向は注目するべき。当時の倭国は允恭の存在感が薄い。
★460年・1月允恭は卒し、2月の葬儀に新羅使者が来て「うねめはや」事件起こる。皇位継承問題があり、12月穴穂皇子が即位、安康。即日宋に使者を派遣したようだが、宋書では無視されている。
●460年(129巻)・この年、宋は比較的平穏。前年459年に高句麗長寿王に開府儀同三司を認める
■462年・「済死す。世子興、使を遣わして貢献す。世祖の大明六年、詔して曰く、『倭王世子興、奕世戴ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし』と。」
★462年・前後して安康暗殺、後継争い激化の後、雄略天皇即位。
■462年・「興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。」(この部分は次の武の上表文の前段)
★463年・雄略7年吉備下道前津屋誅殺、下道田狭の稚媛を奪い、田狭は百済に派遣されるが新羅に入って反す。
★464年・「雄略8年春2月身狭村主青・桧隈民使博徳を呉国に遣わした。」この年まで即位以来8年新羅が朝貢しないので、新羅を攻めた。任那王が膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子らを新羅に送り、高句麗を討った。ここで呉国への使いも半島情勢の緊迫ですぐには渡航できたかどうかわからない。
★465年・雄略9年3月新羅征伐に紀小弓宿禰󠄀・蘇我韓子宿禰󠄀・大伴談連・小鹿火宿禰󠄀らを送り、小弓には吉備上道大海媛を同行させる。新羅で小弓は敗死、これを受け紀大磐宿禰󠄀が新羅に行き、蘇我韓子宿禰󠄀を誅殺。大海媛は帰国し淡輪に古墳を築く。
●465年(130巻)・宋の廃帝幼暴、8月戴法興・奚顯度・劉義恭・柳元景・顏帥伯の誅殺、山陰公主奔放。9月徐州刺史義陽王の昶の魏亡命。10月寧朔將軍の何邁反乱鎮圧。11月沈慶之閉門と誅殺。王族虐待と晉安王子勳挙兵。竹林堂廃帝誅殺。12月湘東王即位、子勳再挙兵。とこの年の後半は内乱状態にに突入していく非常に不安定な状況に陥る。
★466年・「雄略10年秋9月4日身狭村主青等が、呉が献じた鵞鳥二�屬鮖�って筑紫に行った。この時鵞鳥は水間君の犬に食われて死んだ。水間君は憂い恐れて鴻(ひしくい、大鳥)十羽と養鳥人を献じて罪をあがなうことを願い、天皇は許した。」
●466年(131巻)・1月��琬は尋陽で湘東王子勳を即位させる。薛安都味方し朝廷はわずかに2郡を支配に追い込まれる。蔡興宗が緩和策を取り、殷孝祖の入朝で情勢は逆転。2月蕭道成ら進攻で東軍崩壊し殷孝祖が敗死。3月沈攸之は赭圻の補給戦で占領。7月張興世の建議で濃湖の水上戦。8月劉胡・袁�擇瞭�亡、��琬の死と張��の降伏。沈攸之は子勳を斬る。劉胡は逃亡し死して一連の騒乱は終了。10月世祖の子皆殺し。薛安都らが魏に降り、河東公。12月劉勉の壽陽包囲と殷琰の投降。
このように丸々1年はほぼ内乱状態にあり、とても外国の使節が首都に到達できる状況になく、雄略の使者は、どちらに付くかと判断さえ出来ない状況だったろう。すごすごと引き上げてきたというのが真相だろう。
★470年・「雄略14年春1月13日身狭村主青等は呉国の使いと共に呉の献じた手末の才人、漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて住江の津に泊まった。この月に呉国の来朝者のために道を造り、磯果の道に通じさせた。これを名付けて呉坂とした。」
JR吉備線の服部駅なども服部部の住んだところ、吉備にも来ただろう。この時期には吉備では両宮山古墳などの時期。服部の南には寺山古墳がある
●470年(131巻)・宋は6月宮中裸婦人大宴会。蕭道成は難を免れる。9月蕭道成淮陰に鎮す。比較的平和だが幼主の横暴が続き、次の斉を建てる蕭道成が実力を付けていく。
▲471年・稲荷山の鉄剣銘の辛亥の年「(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」雄略の力が東日本にも及び、杖刀人などの人制が始まり、王権が強化される。
●471年(132巻)2月皇帝の行動異常、禁止語の多し南徐州刺史の晉平刺王の休祐の馬から落とし誅殺。巴陵王の休若は危機回避。5月上の病厚く休仁誅殺。7月巴陵哀王の休若誅殺。休范のみ全くす。上は蕭道成を疑い苦慮、入朝。10月垣崇祖淮北を經略失敗。皇帝の誅殺が続く。
▲472年・百済は北魏に朝貢、上表文。北魏答礼使・邵安を派遣。邵安二度目の使者は高句麗妨害し、北魏は詰問。この頃高句麗は僧道琳を密偵として送り込む。これを受け高句麗は毎年の北魏への遣使を2度行うようになる。百済と高句麗の対立激化は倭国を引きずり込んでいく。
▲475年(三国史記)・魏の顕祖は邵安を東來から海上で百済に送使するも、大風で到達せず。百済は度々高句麗が辺境を犯すので、北魏への朝貢中止。秋9月高句麗長寿王は兵3万人を率いて百済漢城攻撃し陥落、蓋鹵王は戦死、男女8万人捕虜、文周王は新羅援軍1万、高句麗撤退後、南下して即位。冬10月熊津に都を移す。
★476年冬(ここは1年ずれている)・高句麗王が大軍で攻め百済が滅亡。生き残りが倉下に集る。
★477年春3月・雄略は久麻那利を百済の汶州王に賜り、激励。
●477年(134巻)・宋の4月蒼梧王・後廃帝の放浪癖と虐殺趣味の恐怖。6月蕭道成は誅殺をまぬかる。7月廃帝・蒼梧王の殺害。蕭道成を司空、錄尚書事、驃騎大將軍、8月開府儀同三司。12月沈攸之の挙兵。
■478年・(倭王武の上表文)「順帝の昇明二年、使を遣わして上表して曰く、『封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き、畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆ず。臣、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸 な仮授して以て忠節を勧む』と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王に除す。」
●478年(134巻)・1月沈攸之は郢城を攻め落とせず江陵に逃亡、縊死。戒厳令解除。3月黃回に帰還。4月黄回の誅殺。8月二尚方の廃止。9月蕭道成に九爵。既に蕭道成の覇権が明確になる。
★479年夏4月・百済の汶州王が亡くなり、雄略は昆支王に2番目の末多王に筑紫の兵500を与えて「親しくねんごろに戒めて」送り届けた、これが東城王となる。
★479年8月7日・雄略天皇死す。星川皇子の乱。新羅を討つ吉備尾代に蝦夷反乱、丹波まで追いかけて誅殺。
●479年(135巻)・3月蕭道成に九錫。楊運長と臨川王の綽の誅殺。王儉抜擢。4月宋の順帝禅譲。齊の蕭道成即位。嶷尚書令、驃騎大將軍、開府儀同三司、揚州刺史。
こうして雄略の亡くなったのは、宋が蕭道成に乗っ取られて滅亡する瞬間に当たり、以後南朝への朝貢が途絶える事になる。逆に宋の失墜が雄略の命取りになった可能性さえある。雄略による日本列島統一は頓挫する。
令和2年4月13日 岡將男
2022年9月3日古代日本の中心は畿内・九州でない、首都邪馬台国の中心は吉備国・岡山
第3回定説への叛乱in岡山 9/3の11-16時、9/4の10-16時、2500円
蔭涼寺(岡山市北区中央町10-28)路面電車清輝橋線大雲寺町下車徒歩5分
岡將男資料pdf「楯築遺跡の再評価と牛窓の応神天皇」PP2022-0903定説吉備反乱3.pdf新着

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