中国古代の南朝・宋と斉時代の「資治通鑑」の全訳に挑戦。日本の古墳時代に相当する「宋書」などは紀伝体で記述されているのに対して、後の「資治通鑑」は編年体で編纂されわかりやすい。日本には全訳がないので、挑戦。協力者と校正者を求めています。

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苻洛は応神天皇に変身                        令和3年12月31日
2021-1231苻洛は応神天皇.pdf

 吉備の造山古墳は応神天皇陵ではないか、とは平成4年に書いて広島の財界誌に連載された小説「勾玉の首飾り」以来の見通しだ。平成26年に書いた「吉備邪馬台国東遷説」でも補強して執筆した。実は私は小林惠子の「興亡古代史、東アジアの派遣争奪1000年」をボロボロになるまで熟読し、日本の万世一系とされる天皇の一部は、朝鮮中国から渡ってきたであろうと確信を持つようになった。
 小林惠子は、ほぼ全ての天皇が渡来系だとするが、そこまではいかないまでも、大陸の知識人や技術との格差は大きく、今日で言えば最新の金融技術を持った投資ファンドの連中が、財界の一部を席巻したり、官僚出身者が極めて当たり前に、知事や市長になるようなものだとも言える。

苻洛についての検討
 さて小林惠子は、中国の漢帝国崩壊後の魏晋南北朝時代に、北方遊牧民族氐の前秦苻堅の兄の子の苻洛が反乱失敗後に倭国に転じて、応神天皇になったとする。苻堅は370年に関東から北京周辺の幽州から遼西・遼東までを支配していた慕容氏の前燕を滅ぼして、苻洛をその方面を支配させた。まずは資治通鑑の中から、苻洛について引用しておこう。

資治通鑑・第104巻376年10月
劉衛辰は代の逼る所と為り,救いを秦に求め,秦王の堅は幽州刺史の行唐公の洛を以て北討大都督と為し,幽、冀の兵十萬を帥いて代を擊たしむ。并州刺史の俱難、鎮軍將軍の��羌、尚書の趙遷、李柔、前將軍の朱肜、前禁將軍の張蚝、右禁將軍の郭慶をして步騎二十萬を帥いて,東に和龍に出で,西に上都に出で,皆な洛と會さ使めて,衛辰を以て鄉導と為す。洛は,菁(苻健が關中に入る時に功有り、苻健没時に逆を以て誅殺せらる)之弟也。
同376年11月 
代民を分けて二部と為し,河より以東は庫仁に屬し,河より以西は衛辰に屬し,各々官爵を拜し,其の衆を統べ使む。賀氏は珪を以て獨孤部に歸し,南部大人の長孫嵩(始め拓跋鬱律は沙漠雄と什翼犍を生む。沙漠雄は名を仁と変え拓跋と号す。道武は嵩が宗室の長なるを以て長孫氏とす)、元佗等と皆な庫仁に依る。行唐公の洛は什翼犍の子の窟咄が年長を以て,之を長安に遷す。堅は窟咄をして太學に入れ讀書せ使む。

 苻洛の父親は、苻氏一族が出身地の關中に戻る時に貢献し、そののち苻健に叛乱して殺された苻菁の子だった。苻健の没後、苻堅はとても寛容な人柄であったから、一族として殺されずに済んだ。376年、苻洛は後に北魏を建国する鮮卑の一族の拓跋氏の代を滅ぼす軍の責任者で、この時は幽州刺史であった。勝利宣言後、行唐公の洛に征西將軍を加える。行唐とは現在の河北省石家荘市行唐県の事で、苻洛は河北を統一した前秦の東方方面軍担当であった。

資治通鑑・第104巻378年10月
秦の豫州刺史の北海公の重は洛陽に鎮し,反を謀る。秦王の堅は曰く、
「長史の呂光は忠正なり,必ず之と同じからず。」
即ち光に命じて重を收め,檻車をもって長安に送り,之を赦し,公を以て第に就かしむ。重は,洛之兄也。

苻洛の兄の苻重は378年に洛陽で反乱を企てるが、許されている。ここから380年の苻洛の反乱の部分。

資治通鑑・第104巻380年10月
[前秦の苻洛は東土を挙げて反乱]秦の征北將軍、幽州刺史の行唐公の洛は,勇にして而して多力,能く坐して牛の奔るを制し,射て犁耳(鋤の耳は分厚い)を洞(つらぬ)く。(前年)自ら代を滅ぼす之功有るを以て,開府儀同三司を求め,得ず,是に由りて怨憤す。三月,秦王の堅は洛を以て使持節、都督益、寧、西南夷諸軍事、征南大將軍、益州牧と為し,伊闕より襄陽に趨き,漢(水)を溯りて而して上ら使む。洛は官屬に謂って曰く、
「孤は,帝室の至親(苻堅の兄の子)なり,入りて將相と為るを得ず,而して常に邊(へん)鄙(ぴ)に擯棄(ひんき)せられる。今又た之を西裔に投じ,復た京師を過ぎるを聽さず,此くは必ず陰かに計有らん,梁成(襄陽にあり)をして孤を漢水に沉(しず)め使めんと欲する耳。諸君の意は何如や?」
幽州の治中の平規は曰く、
「逆に取りて順に守るは,湯、武是れ也。禍いに因りて福と為すは,桓(齊の桓公)、文(晉の文公)是れ也。主上は昏暴為らずと雖も,然れど兵を窮め武を黷(けが)し,民の肩を息(やす)む所有るを思う者は,十室にして而して九。若し明公の神旗一たび建てば,必ず率土は雲のごとく從わん。今全燕に跨據し,地は東海を盡くし,北は烏桓、鮮卑を總べ,東は句麗、百濟を引きて,控弦之士は五十餘萬に減ぜず,奈何して手を束ねて徵に就き,不測之禍いを蹈まん乎!」
洛は袂を攘げて大言して曰く、
「孤の計は決す矣,謀を沮む者は斬らん!」
是に於いて自ら大將軍、大都督、秦王と稱す。平規を以て幽州刺史と為し,玄菟太守の吉貞を左長史と為し,遼東太守の趙贊を左司馬と為し,昌黎太守の王縕(おううん)を右司馬と為し,遼西太守の王琳、北平太守の皇甫傑、牧官都尉の魏敷等を從事中郎と為す。使者を分遣し兵を鮮卑、烏桓、高句麗、百濟、新羅、休忍の諸國に徵し,兵三萬を遣わして北海公の重を助けて薊を戍らしむ。諸國は皆な曰く、
「吾は天子の為に籓を守る,行唐公に從いて逆を為す能わず。」
洛は懼れ,止まらんと欲し,猶豫して決せず。王縕、王琳、皇甫傑、魏敷は其の成る無きを知り,之を告げんと欲す。洛は皆な之を殺す。吉貞、趙贊は曰く、
「今諸國は從わず,事は本圖(本来の計画)に乖(そむ)く。明公は若し益州之行を憚る者(は),當に遣使して表を奉じて留まるを乞うべし,主上も亦た從わざるを慮らず。」
平規は曰く、
「今事は形として頗る露われ,何ぞ中止す可きや!宜しく詔を受けると聲言し,幽州之兵を盡くし,南して常山に出でれば,陽平公は必ず郊に迎えん。因りて而して之を執り,進みて冀州(陽平公融は冀州牧)に據り,關東之衆を總べて以て西土を圖れば,天下は指麾して而して定まる可し也。」
洛は之に從う。夏,四月,洛は衆七萬を帥いて和龍(現・朝陽市)を發す。
[苻堅はついに討伐軍を編成す]秦王の堅は群臣を召して之を謀り,步兵校尉の呂光は曰く、
「行唐公は至親を以て逆を為す,此くは天下の共に疾(にく)む所なり。願わくは臣に步騎五萬を假し,之を取らんこと遺(お)ちたるを拾うが如き耳。」
堅は曰く、
「重、洛の兄弟は,東北の一隅に據り,兵賦は全資あり,未だ輕んず可からざる也。」
光は曰く、
「彼の衆は凶威に迫られ,一時に蟻聚する耳。若し大軍を以て之に臨めば,勢いは必ず瓦解すべし,憂うるに足らざる也。」
堅は乃ち遺使して洛を讓(せ)め,和龍に還ら使め,
「當に幽州を以て永く世々封と為すべし。」
洛は使者に謂って曰く、
「汝は還りて東海王(苻堅は以前東海王)に白(もう)せ,幽州は褊狹なり,以て萬乘を容れるに足らず,須(すべから)く秦中に王となり以て高祖(苻健)之業を承くべし。若し能く駕を潼關に迎える者は,當に位は上公と為し,爵は本國に歸らしむべし。」
堅は怒り,左將軍の武都の竇沖及び呂光を遣わして步騎四萬を帥いて之を討たしむ。右將軍の都貴をして傳を馳せて鄴に詣らしめ,冀州の兵三萬を將いて前鋒と為す。陽平公の融を以て征討大都督と為す。
[苻洛は苻堅に敗れるも、誅さず、涼州之西海郡に流される]北海公の重は薊城之衆を悉くして洛と會し,中山に屯し,衆は十萬有り。五月,竇沖等は洛と中山に於いて戰い,洛の兵は大いに敗れ,洛を生きて擒とし,長安に送る。北海公の重は走りて薊に還り,呂光は追いて之を斬る。屯騎校尉の石越は東萊より騎一萬を帥いて,海に浮かびて和龍を襲い,平規を斬り,幽州は悉く平らぐ。堅は洛を赦して誅さず,涼州之西海郡に徙す。(西海郡は酒泉の西北、漢獻帝興平二年に置く、現・内モンゴル自治区阿拉善(あるしゃー)盟額済(えじん)納旗達来呼(だらいほ)布(ぶ)バルガス鎮、郡治は居延県、ガシュンノール南東の沙漠の中)

 苻洛は代を滅ぼしたのに、苻堅の恩賞に不満で、特に「開府儀同三司」といわゆる幕府を開く権利を要求したにもかかわらず、拒否された。それどころか、北京周辺の幽州から、「使持節、都督益、寧、西南夷諸軍事、征南大將軍、益州牧」と蜀の奥地への転封を命令された。前秦苻堅は、滅ぼした前燕の王族や鮮卑を多く都の長安に住まわせた一方、自らの一族である苻氏・氐族を各地に分散配置したのである。また移動するにも都長安の通過を許さず、襄陽から漢水沿いに蜀への移動を指示した。苻洛は体の良い左遷どころか、誅殺されるのではないかと恐怖した。そこで遂に幽州で反乱を計画した。

休忍についての検討
 幽州の治中の平規は、滅ぼした鮮卑の前燕の支配した地域全て、「北は烏桓、鮮卑を總べ,東は句麗、百濟」に援軍を要請すれば、五十万の兵も動員可能だと助言した。自ら「秦王」を称しているのも注目。日本で今も人気のある「秦氏」を論じるなら、秦の始皇帝よりも苻堅や苻洛が「秦」を称したことの方が蓋然性が高い。
苻洛が任命した太守は、幽州・昌黎・遼西・遼東・玄菟・北平など、現在の河北省、東北地方の遼寧省を網羅している。また使者は「鮮卑、烏桓、高句麗、百濟、新羅、休忍」に向かったが、どこからも支援を得られず、挙兵を躊躇する。ここで分かるのは前燕もしくは前秦の苻洛は、朝鮮半島全てをある意味支配していたということだ。
 なお小林惠子は「休忍」とは、日本書紀の応神天皇の異母兄の倭国の大和の「忍熊皇子」のことではないかという。「休」という姓はシルクロード沿の国にもある姓だが、日本の天皇の枕言葉に「やすみしし」とあるのが関係するなんてのは、ちょっとご愛敬。少なくとも苻洛=応神なら、忍熊皇子を滅ぼしたというのもあり得る話しだ。
 私はこうした小林惠子の諸説に対して、歴史学者がほとんど口をつぐんでいることに不満だ。小林惠子は藤ノ木古墳から出土した豪華な金冠などが慕容氏燕や新羅慶州のものと共通であることに衝撃を受けて、主に通史としての資治通鑑を参考にしながら論を組み立てて来たようだ。朝鮮の三国史記などもかなり資治通鑑を引用して、流れを掴んでいるようだ。
苻洛は結局反乱を起すものの、あえなく負けて、許され、西海に流される。

 ところで日本書紀では、応神天皇は仲哀天皇の子供で、神功皇后が金銀彩色の多い新羅を攻めるべきだと主張するのを否定して、天罰で死ぬ。神功皇后は「三韓征伐」を行ってそのあと、まだお腹にいた応神天皇を抱えたまま、瀬戸内海を攻め上って、忍熊皇子を破って、そのあと応神は即位したとする。だが勿論こんなのは全く史実ではなかろう。早い話が、応神は既に成人で、神功皇后が仲哀を暗殺して応神に乗り換えて、大和に攻め上ったというのが、あり得る話だ。

坐して牛を制するの検討
 ここまで考えていて、私は苻洛の人となりの説明に、目を見張った。「勇にして而して多力,能く坐して牛の奔るを制し,射て犁耳(鋤の耳は分厚い)を洞(つらぬ)く」と。牛を座ったまま制すとは、どこかで聞いた話だと思ったが、これは岡山県瀬戸内市牛窓の語源「牛転(うしまろび)」とそっくりではないか。牛窓には神功皇后と応神に関係の深い住吉大神に関わる伝承が多い。念のために資治通鑑が多く引用している晉書の苻洛の部分(載記第13)を見れば、「雄勇多力,而猛氣絕人」と牛を制した話は出てこない。資治通鑑編纂時には、晉書以外の資料があったのだろう。牛窓については後で記す。
383年、河北全てを平定した前秦の苻堅は、寄せ集めの兵百万人で南の東晋を攻めるが、淝水の戦いで大敗して崩壊すると、前秦の涼州刺史の梁熙は、苻堅の命で西域全域を平定して帰還して来た安西将軍呂光と対立するようになった。この時、美水県令の張統は梁熙へ、苻洛を盟主に推戴するよう勧めたが、梁熙は逆に苻洛を警戒し、間もなく殺害されたとする。

資治通鑑106巻385年9月
行唐公の洛は,上(苻堅)之從弟にして,勇は一時に冠たり,將軍の計を為すに,奉じて盟主と為し以て衆望を収め,忠義を推し以て群豪を帥いるに若くは莫し,則ち光は至ると雖も,敢えて異心有らざらん也。其の精銳に資し,東に毛興(河州刺史)を兼ね,王統(秦州刺史)、楊璧(南秦州刺史)を連ね,四州之衆を合わせて,凶逆を掃(はら)い,王室を寧んぜれば,此れ桓、文之舉也。」
熙は又た聽かず,洛を西海に殺す。

 ここでも苻洛が「勇は一時に冠たり」と表現されているが、坐して牛を制するとは書いていないものの、勇力勝るとの噂は広く知られていたようだ。なお「西海」とは、小林惠子は「興亡古代史」では青海省と勘違いしていたようだが、「広開土王の諡は仁徳天皇」では西海郡のあった現在の武威市と張掖市の北東の沙漠の中に比定している。Wikipediaで調べると、

西海郡は、後漢から北魏にかけて、現在の内モンゴル自治区アルシャー盟エジン旗一帯に設置された。郡治は居延県に置かれた。前漢のとき、居延県は張掖郡に属し、居延県が張掖都尉の治所となった。後漢の安帝のとき、張掖居延属国が置かれ、涼州に属し、居延県を管轄した。195年(興平2年)、武威太守の張雅が張掖居延属国に代えて西海郡を置くよう奏請した。建安年間、張掖居延属国は西海郡と改められた。521年(正光2年)、北魏は柔然の婆羅門を西海郡に置き、部落を統率させ、離散した人々を集めさせた。

とのこと。小林惠子は当初は苻洛が380年に西海に流罪になってからまもなく、脱出して倭国に来たとするが、当初はインド経由で来訪したとする。西海の位置は沙漠を越えればステップルートから高句麗方面に出られる位置である。苻洛は代を滅ぼしたとき、来たのステップルートにも足がかりを持っていたはずで、北廻りで倭国に来訪する方が蓋然性は高い。

新羅についての検討
 さて高句麗、百済、新羅などを当然経由して倭国に渡来したそのルートについては、小林惠子の説について十分に検証しているわけではないので、読者諸君の判断も待ちたい。その上で中国史に新羅が始めて登場するのはなんと、前秦の苻堅に対する使者からだという事実に着目したい。

資治通鑑104巻377年
春,高句麗、新羅、西南夷は皆な遣使して秦に入貢す。
太平御覧
秦書に曰く、苻堅の建元十八年(382年)、新羅王樓寒は衛頭を使わし美女を献じる。国は百済の東にあり、そこの人は髪が長く、美しい。また苻堅の時、新羅王樓寒は衛頭を朝貢に遣わす。
苻堅曰く「卿が話している海東の事は古く聞いていたこととは異なる。なぜかな?」
答えて曰く「中国と一緒で時代が変われば名号も改めます」

 由水常雄の「ローマ文化王国新羅」には、この時期の新羅が、おそらくはステップルートとの交易を通じて、ローマの王冠や玉剣などを導入し、実際に新羅荊州の古墳群からは、ローマングラスなどが豊富に出土し、中国文化以上にローマ文化の影響があると論じている。この事と神功皇后が新羅を金銀財宝の国と描いている事が、妙に関連する。さらに、葛城襲津彦が新羅の美女攻勢に負けて、新羅を攻めたこと、応神天皇の招いた日向の髪長姫を仁徳天皇に与えたことなどがダブる。
 ともかく377年に新羅が始めて苻堅に入貢したあと、380年に苻洛が反乱を起して援軍要請に応じず、その後382年に新羅は苻堅に美女を献じている。その頃新羅は金銀ザクザクの国になっており、それを倭国の神功皇后は知っていたというわけだ。そしてその金銀ザクザクはステップルートからやってきたとしたら、苻洛が新羅経由で倭国に入ったことも考えられる。

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